「そうだね」って言葉に、ほんとの共感はない。

「そうだね」って言葉に、ほんとの共感はない。

「そうだね」

それは、やわらかい同意。角が立たない返事。

でも本当は──言いたいことがあるときほど、出てくる言葉だったりする。


本当は「違う」と思ってる。でも…

会社で、恋人との会話で、友達との雑談で。

「私はこう思うよ」と相手が話しはじめたとき、
心の中では「いや、それちょっと違う」と感じている。

でも、わざわざ指摘するのもしんどい。
空気を壊したくない。反論してるって思われたくない。

だから、笑って言う。

「…そうだね」

昔、付き合っていた彼女に「この人と結婚するかも」って言われたとき、
なぜか返事ができなかった。

沈黙に焦って、ようやく出た言葉は「…そうだね」。

本当は迷っていた。だけど、迷ってる自分を見せるのが怖かった。

結果的にその“曖昧な返事”が、彼女の不安を強くしてしまった。


その“優しさ”が、自分の感情をすり減らす。

何度も「そうだね」を繰り返していると、
だんだん“自分の意見”がわからなくなってくる。

誰かの話を否定せずに受け止めることは、たしかに優しさ。

でもそれが、「自分の気持ちを伝えない」こととイコールになっていたら──

それは、ただの“我慢”になってしまう。

あるとき、友人に恋愛相談をされた。

「それ、ちょっと違うかも」と思ったけど、
どうしても言い出せなくて、また「そうだね」で終わらせてしまった。

そのあと送られてきたLINEに、
「なんか、否定されるよりつらかった」って書いてあった。

優しさって、黙ることじゃない。


“そうだね”は、都会的で無難な共感。

関西の人なら、きっとこう言う。

「そやな」

でも不思議なことに、「そやな」には、
ちょっとした“間”とか、“あいまいな保留”のニュアンスが含まれてたりする。

たとえば──ドリカムの『大阪LOVERS』という曲。

「そやな」って、いるの?いらないの?どっちなの?

その一言に、彼女は悩む。

あれって、「同意してるようで、してない」
「受け止めてるようで、距離をとってる」

そんな、“言わない本音”がにじんでる。

つまり、「そうだね」も「そやな」も、
ときには“本音を隠すクッション”になってるってこと。


「そうだね」は、自分との会話をやめる言葉。

相手に合わせることで、その場はうまくいく。

でもその代わり、自分の中の“モヤモヤ”はどんどん置き去りになる。

「そうだね」って言ったけど、
本当はうなずきたくなかった。
本当は、もっとちゃんと伝えたかった。

──でも、伝えることが怖かった。

拒まれるのも、否定されるのも、
「めんどくさい人」って思われるのも、すごく怖かった。


少しずつ、「私はこう思う」って言ってもいい。

別に、大声で主張する必要はない。

ただ、「そうだね」の代わりに

「私はこう思ってたんだけど、どうかな?」

そんなふうに言葉を置けたら、会話はもっとあたたかくなる。

相手と違う意見を持つことは、
「壁」じゃなく「入り口」になることもある。

あなたの本音を聞いて、ホッとする人もきっといる。


まとめ:同意ばかりが、会話を育てるわけじゃない。

「そうだね」は、やさしい言葉だ。

でも、何度もそれを繰り返していると、

“誰の人生を生きてるんだろう”って、ふと立ち止まりたくなることがある。

だから今日は、ひとつでも「私はこう思う」を言ってみて。

それは、相手との距離じゃなく、自分との距離を近づける第一歩かもしれない。